つい先日、ついに仕事がみつかった。3ヶ月間も、実に暗いトンネルの中を、オレは彷徨ってしまっていた。脱フリーター宣言をして既に1年と数ヶ月。この間、オレはバンド活動を続けながらもまさに暗闇の中を歩き続けていたのだった。
今回やっと仕事が決まって、幸運なことに世界がまた明るくみえるようになった。香代曰く仕事が決まった日とその前の日とじゃオレはまったく別人のような顔つきをしていたらしい。恥ずかしいがこれは否定しがたい事実であり、いや、冗談抜きで精神的に危ないところだった。いささか大袈裟だな。
働きたい気持ちでいっぱいだが初出勤まで数日余暇が許されているので、今日は思い立って中央線を下り、高尾山までやって来てしまった。本気の登山なんて何年ぶりだろうか。もう覚えてもいないや。
青梅行きだったので立川で高尾行きに乗り換え。沓沢ブレーキーの住む八王子をすり抜ける。高尾の駅を降りると、高尾山の登山口まではここから歩くとかなり遠いことが地図を見て分かった。京王線で高尾山口という駅まで行かなければならない。初めて来た訳ではないのに、そんなことはよく覚えていない。オレは何でも忘れてしまうのかな。
空は見事に晴れていた。社会人復帰の喜びを天気とともに噛みしめつつ京王線に乗り換えると、どうやら反対方面の電車に乗ってしまったらしく、隣駅で降りたら「ハザマ」という悲しげな駅に着いてしまった。慌ててすぐにまた反対のホームへ移動し高尾山口方面の電車に乗り換えた。オレはこんなことをしょっちゅうやってしまう。しかしそれにしてもこの「ハザマ」という駅、本当に何かのハザマ、という少し閉塞感の漂う微妙な駅だった。何のハザマなのかはよくわからないのだが。
フリーターを脱してからのこの1年間、オレは何故かしらいろいろなハザマを彷徨っていた。結婚を決意していろいろと思考の切り換えをしてみた、いや、してみたというより、そうせざるを得ない不可解な切迫感を一人で感じてしまっていた。で、そんな中でいろいろな難関にぶつかって心は浮きつ沈みつ、身体の調子まで浮きつ沈みつ。その時その時でいろんな人に励ましてもらったりしながら乗り越えてきたが、ここ3ヶ月の無職期は総じてサがる一方で、とにかく辛かった。
高尾山口から山頂をめざして歩き出した。のんびり家を出たこともあって、時は午後2時を回っていた。太陽は珍しくギラギラと、そして気温も少しずつ柔らかく温かくなってきていた。
滑り出しから急勾配でちょっと焦る。こんなんで90分も歩くのか。大丈夫かしら。頂上まで、無事登りきることができるだろうか。普段こういう筋肉の使い方をしないものだから。
遠足シーズンなのか小学生らしき軍団がゾロゾロと正面から威勢よく降りてきて、ノロノロ登るオレとすれ違った。引率の先生らしき人物もチラホラといる。オレも小学生の頃高尾山の登山に遠足で来たことがあった。ここは西東京地区のキッズには定番の遠足スポットだ。何だか一人ブラブラとキッズの流れと反対に歩く自分の姿が俄に滑稽に感じられるようで、ひどく恥ずかしくて俯いて通り過ぎた。この、夢見る少年少女達に、バビロン社会の門前で打ちのめされているオレの姿はどう映るのであろうか。ねえねえ、今、変なオジさんが通ったネ。怪しい感じだったネ。そんな風に思われていないだろうか。絶対に思われてるな。随分と情けない姿に成り果てたなアクセル。
一歩一歩踏み込む度に脹らはぎの筋と太ももの前面の筋がギシギシと軋む感じがする。日頃の運動不足の程を思い知らされるが、何故かこの疲労感が爽快である。キッズ達と眼を合わせられなかったウブなオレだが、やはり心が晴れてきているのがわかる。
そういえば一ヶ月程前に、これも無職の状態の時だったけど、同じように自然を求めて藤野へ行ってみたことがあった。陶芸家やゲイジュツカが、その自然環境に惹かれ、好んで住みついているのだという。あのUAもここにオウチがあるらしい(人様から聞いたハナシ)。
オレもゲイジュツカの端くれとしていつかは田舎でスローライフ、なんて簡単な気持ちで考えてしまう(これに関してはよく香代に冷たい眼差しを向けられてしまう)けど、その田舎への憧憬をリアルに我が身に感じたいがために赴いたのであったが、その日は生憎ドロッとした曇天で、まだ冬の寒さが抜けきっておらず、肩をすぼめて藤野の地を徘徊したのだった。駅から河向こうに見える山の中腹に、これも現代アートなのか、巨大ラブレターのモニュメントが見えたが、それがまったく愉快に映らず、むしろ興ざめな感じさえした。さらにどういうわけかその日歩いた藤野駅周辺のぶっきらぼうな道路では、あちこちで盛んに道路工事が行われていて、遠足気分とは程遠い。自分がまったくこの土地に歓迎されていないという被害妄想にオレを陥れた。寒いし、どこを歩いていいかも分からないし、すぐに不安な気持ちで一杯になった。数時間は滞在しようと思っていたのに結局2時間ほどで撤収。派遣会社から仕事の連絡が携帯にかかってきたりして、どっかりと、オレが直面している現実を叩き突きつけられたのだった。
藤野の駅に戻ったら次のノボリ電車が来るまでに40分も待たねばならない。寒い。腹が減った。駅前に店らしきは何にもなし。むろんコンビニなどない。むきだしの田舎の洗礼を受け、(おまえはこんなとこでピクニックしてる場合じゃねえだろ。スローライフなどホザイテないで早く仕事をみつけろよ)という神のお声が聞こえた気がした。駅にセブンティーンアイスの自販機があって、寒いけど、とにかく腹が減ってしまったから、チーズケーキ味という不思議なヤツを選んだらちっともおいしくなかった。食べ終わってベタベタしたゴミを捨てようとゴミ箱を探すと、ない。代わりに「ゴミは各自で持ち帰りましょう」という立て札にぶつかる。ちっきしょう。ハイ、おとなしく僕はもう武蔵境に帰ります。暗澹たる気持ちでゴミを小さくまとめ、駅の便所にあったトイレットぺーパーを失敬し、それにゴミをくるんでポケットに入れた。情けない思い出となった。
打って変わって今日は同じピクニックなのに全く感動が違った。藤野より高尾山のほうがしっかり遠足コースとして整備されているせいもあるのかもしれないが、やはり心の余裕が違う。それだけ無職の時の精神的不安がハンパじゃなかったとも感じられる。よくニュースで失業率が何パーセントだの、就業率が何パーセントだのと報道しているけど、アレは確かに重大な問題だよ。仕事をしたいのに出来ない人が多いってのは大問題だよ日本政府。自分が実際に失業状態の精神的鬱屈を強く感じてからそう思った。
中腹の茶屋でざるそばを食べた。今日は高尾山でそばを食べるってのも大きな目的のひとつだった。小学生のキッズには茶屋でそばを啜るなんてできないもんね。意外と気温が高くてかなり汗をかいたので温かいそばは避けてざるを選んだ。食券を買うスタイルの簡易食堂の様な体だが、そばにコシがあって存外うまい。仕事が決まった昨日から急にまともな食欲が復活してきたことも嬉しい次第。登山道に面した軒先で団子を焼いて売っているのが見える。炭の入った火鉢を囲むように串団子が刺さっている。その周りの空気が熱でゆらゆら揺れていて、その向こうで若いカップルがベンチに座って楽しそうにしているのが見える。峠の茶屋だから絶好の景観が眼下に広がっていた。
さっとざるを食い尽くしてまたすぐに山道に戻る。この峠はケーブルカーの終着駅になっていて、ここから歩き出す人もいるようだ。脚が悪い人でも山頂にアクセスしやすくなってる。そのためかそこからは勾配も穏やかになり、歩きやすくなった。途中天狗が祭られた神社やら、なにしろ社を通り、ついでに賽銭を投げて今回の就職のお礼を込めて祈り、この僕を支えてくれた人々のことを想い祈り、そしてそこから山頂へは割とすぐであった。
90分程歩いただろうか。心地よい疲労感が身体にじんわりと感じられる。向こうの展望スペースの一角で、不自然な程派手に酒を飲んでいる二人の男性が何やら熱い話をしている。不自然ではあるが何やら楽しそうである。ワインなんかを空けているみたいで、話し声を聞いていると、付き合いの古い友達同士であるらしく「そういうオマエはどうなんだよ」「いやいや、オレはその問題に関係ないからなア」とか何とかグデグデと山頂の一時を満喫して悦に入っているように見える。今日は普通の人は働いている平日だし、彼ら風貌も怪しい。しかも山頂で酒宴か。いいな〜、気になるな〜。通常酒は付き合いくらいでしか飲まないオレも、何故かふとビールが飲みたくなってしまい、ショボっちい売店で、下界の1.5倍くらいの高い金を出して350缶の一番絞りを買った。つまみに柿ピー。売店の兄ちゃんはとことん無愛想であった。
酒宴のお二人の側にワザトらしくないように腰を下ろし、オレも一人でささやかな酒宴を始めた。近くに座ったのでお二人のトークの内容はばっちり聞こえてくるのだった。
「えぇ、大江千里のどこがいいんだよ、いや〜ホントどこがいいの、アレの。オレはさっぱりわからないね」
「いやあ、なかなかいいんだよ、トークとかも結構面白いし」
大江千里?というとやはりオレより少し上の世代だよな。
「ディランは詩でしょう」
「いやディランは音楽でしょう。だって歌詞なんて分からないじゃん」
「いやいやオレだって歌詞なんてちゃんと読んだことないけどさ、でも聞けば分かるでしょう。ディランは詩だよ」
オレはどちらの意見にも賛成である。350の缶ビール一杯でオレはかなり酔っぱらってしまえるのだ。柿ピーをガリガリ。旨い。
「オマエの文章はもっと勉強が必要だな」
「オマエは表現者じゃない癖にそんな偉そうに言うなよ。オマエは文章書かないだろ」
「オレは書かないよ。書けないし。オレは読者だから。オマエの文章、批判することしかできないけどさ、でもだからこそ言わせてもらうけどもっと勉強するべきだし、まだまだ上達するよ。オレの言いたいことも分かるだろ」熱い話である。
どうやらAさんは文章を書く人で、表現者。BさんはAさんの古くからの友人で被表現者(こんな言葉あるのかな)のようだ。役割分担がはっきりしていて、これは男である自分の交友関係を照らし合わせてみても似た様なことがよくあるな。しかしそれにしても、オレもお話に参加したいな〜。
諸事情で心がアッパーになってきているし、小学生とはまともに眼を合わせられなかったオレだが、今日は何でか社交的な気分だ。思い切って話しかけてみた。
「あの〜、突然すいません。お話を伺ってたんですが、作家さんなんですか?」
唐突に尋ねてみると、かなりいい感じで酔っていたはずのお二人はきょとんとした眼でオレを観て、「はい?何でしょう」と急にかしこまった。
話しかけたんだからオレも怯まずに質問を重ねていくと、二人とも元の酔っぱらいに戻って打ち解けていろいろと話してくれた。
本の話、音楽の話、結婚の話、エトセトラ。自然と酒、この二つはこんな風に、堅苦しい世間のしがらみを忘れさせてくれ、初対面でもグイグイ話しが弾んだりするから面白い。話してみて分かったのはお二人は専門学校時代以来の友人であるらしく、毎年1、2回こうして会ったりする。年はオレよか一回り上の40歳。大江千里も納得である。二人とも登山家ではないが自然が好きでこういうところに二人でよく来るようになったという。そしてAさんは現在無職で実家暮らし。Bさんは「環境調査の仕事をやってますけど、アルバイトみたいなもんですよ」ということだ。
お二人は酔っぱらっていることも手伝って、オレにも興味本位でいろんな質問をぶつけてくれる。ので、オレは今自分が迎えている状況、仕事や結婚願望のことなんかをベラベラと喋ってしまった。オレは自分の事を包み隠さずに披瀝する、ということを臆面もなくむしろ積極的にやっちゃう。するとBさんが、10年前、オレと同じ様な感じで結婚のため、相手の両親のため、慌てて仕事を探し、軽く婚儀を済ませたことを語ってくれた。注意することは少ない。少ないけど最低限注意することは注意して、筋を通すところは通せば、後はキミの自由だから。ガンガンやっちゃえばいいよ。そんな風に少し興奮しつつ話してくれた。何をガンガンやっちゃえばいいのかよくわからないが、何か勇気づけられ、楽しくなってきた。携帯電話を見ると、時刻は午後4時を回り、陽が暮れ始めそうなので3人で下山することになった。ああ、高尾山に来て本当によかったナ。
歩き出してすぐに、コレは何の植物だよなアだの、いやコレはシデでしょうだの、マニアックな植物トークを二人がおっぱじめたのは恐れ入った。シダは知ってるけど、シデなんて植物聞いたことない。Bさんは環境調査という仕事柄、植物に関してはエキスパートだということだそうで、木の葉を摘んではぶら下げ、ぶら下げてはまた摘み、あっちチョロチョロこっちチョロチョロと自然を入念に観察しては歩いていく。
Aさんがオレのことを気にしてくれ、いろいろ質問してくれるので、飽きることなく本の話や映画の話や、音楽の話なんかをした。Aさんはその昔近藤等則のツアードライバーをやっていたことがあるらしい。人に歴史ありだな。JAZZ好きということで、マイルスデイビスの話なんかをしてくれた。他にも身体のこと、呼吸法のことなども意見が合って話がはずんだ。野口三千三の話になって、「野口体操の人ですよね。僕も知ってます」とオレがでしゃばったらAさんは「よく知ってるね〜。こんな話しができるなんてな〜」関心してくれる。Aさんは僕と同じでアルコールが身体に反応するのだろう、顔や身体が真っ赤に反応して火照っている。丸い、怪しいサングラスをかけているが、レンズの奥に見えるAさんの眼はものすごく優しい感じがする。
「ワインは家から持ってきたんですか」
「うん、いつもこうやって、山頂でワインを一本空けるっていうのがね…」
酔っぱらって割ってしまったらしく、鋭角に光るボトルの欠片が透明のゴミ袋に、ビールの缶やらゴミやらと一緒に入っているのが可笑しい。Aさんはそれをさっきから左手にぶらさげたまま下山しているのだ。
「Bさんとはぐれちゃいましたけど大丈夫ですか?」
「うん。オレは高尾山口から自転車で帰るし、アイツは電車で帰るから別にいいんだよ」
Aさんは八王子在住。ここ高尾山の麓まで自転車で30分くらいのところに住んでいるそうだ。
Aさんとゆっくりとした会話を楽しみながら京王線の駅まで無事に下山した。お喋りとお邪魔の御礼を告げると「アドレス交換でもしましょうか」とAさんが嬉しいことを言ってくれる。二人とも筆記具を持っていたので、それぞれ千切った紙ペラに住所やメールアドレスを書いて交換した。Aさんはいつの間にかサングラスを外していた。素顔を見ると、昔知り合った大駱駝館の向井雲太郎さんによく似ているな、と思った。
オレは微量でも酒を飲んだ後一段落すると必ず眠くなる。特に飲んだ後自宅に帰る電車で座ったりしまうとイチコロだ。高尾から中央線上り列車に乗り込み、空いているのではばからず座り込むと気づいたらすでに武蔵小金井。登山の程よい疲労も睡眠を深めたのだろうか。
今日は香代が「ミヨコさんとゴールデン街に行ってくる」と言っていたので晩メシは一人だ。残っていた蓮根で炒め物を作ろうと思っていたが、なんとなく刺し身が食べたくなって、普段は寄り付かないイトーヨーカドーの鮮魚コーナーへ。鮮魚コーナーといってもイトーヨーカドーの鮮魚コーナーの魚がどこまで新鮮なのかは誰も知らない。
もうすっかり午後8時を回ったというのに値下げ幅が10〜30%と頼りない。 こういう時は自宅付近の24時間スーパーセイフーに行くに限る。イトーヨーカドーの魚とどっちが旨いかはよく分からんが、セイフーは品揃えから店員の態度から店内の雰囲気から、とにかくパッとしないスーパー。とはいえこの時間帯の魚類の値下げは思い切りがよいのだ。遠回りになるけど寄ってみるとやはり半額品があるある。
298円から半額の149円になったカツオのタタキだけレジに持ってく。レジ袋は貰わずにスタンプを貯める。荷造りスペースにある薄ペラいビニールにだけ入れて手に提げて持って帰る。正常にお腹が空いてくるし、今日はホントに楽しかった。感謝の気持ちを込めて母を祀った神棚に手を合わせる。いつもいつも道を作ってくれてどうもありがとう。高尾山、今度は香代を連れて遊びにいきます。
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