前作『東京フリーターブリーダー』をリリースして赤い疑惑の音楽は、遂に実際多くの方の耳に届くこととなった。いろんなシーンやメディアから反響をもらい、夢の地方遠征までできるようになっていった。
フリーターというキーワードにのみ注目され新聞 に掲載されたり、また、これは知り合いのツテというのも絡んでのことではあったがテレビ出演というものも果たした。
前々作『東京サバンナ』を、CD-Rというあまり迫力のない媒体でリリースしたのが既に5、6年前になるだろうか。その頃僕ら(オレとクラッチ)は、高校生の頃より信仰(大げさだがその位僕らの価値観の根底を支配していた)するまでに至っていたパンク、およびハードコアという音楽にとことん傾倒していたので、その『東京サバンナ』という音源にはやはりささくれ立った音が刻まれており、また、その軟弱にして挑戦的で赤裸裸な日本語詞は周囲のパンク仲間からも奇妙に映ったらしく「リアルパンクだね」などと賞賛やら冷やかしやら分からぬ声を集めていた。
しかしその『東京サバンナ』をリリースした頃より自分の音楽価値観は変遷の一途を辿っていった。パンクという定形の音楽スタイルにとことん飽きてしまったのだ。また音楽スタイルに限らず、ややもすると崇拝されがちなパンクの精神的な魅力、ストイシズム、社会に対するアンチアティチュードなど、パンクにまつわるもろもろに疑問を抱き始めたことが原因だった(とはいえいまだにパンクの恩恵に与っている側面も多々あるが…)。
オレおよびクラッチ がパンク・ハードコアという音楽から離れ始めたタイミングは、申し合わせた訳ではないがまったく同時期だったように思う。彼とは高校で出会って以来、パンクミュージックという共有財産をいつも一緒に確かめ合ってきていた。パンクははみ出した若者の為の音楽だった。社会や世間や周りの連中に違和感を覚えた僕らにとって、パンクには最適なイデオロギーが潜んでいるように思えた。中大附属高校のピカピカの制服を来て二人で新宿のアンチノック というライブハウスに恐る恐る入って行ったあの時から何かが始まったのだ。
そのようにしてパンクやハードコアを愛して青春を過ごした僕らは、だからお互いに、なんとなくそれらの音楽から離れることに臆病だった。何故なら僕らがユートピアだと思っていたパンクやハードコアの世界には強い因習のようなモノが存在しており、仮に僕らが急に今までと違う音楽性を取り入れたりすると、「アイツら魂売ったんじゃねーか」といって急に爪弾きにされてしまうのではないか、という懸念があったからだ。結局、僕らが音楽性を変えていってもパンク時代の仲間に爪弾きにされることはなく、彼らは大体今でも僕らを応援してくれたり期待してくれたりしてくれるのだが、パンクハードコアという世界には確かにそのような保守的な封建的な側面が、その思想とは矛盾するようであるが確かにあった、とオレは思っている。
オレとクラッチはどっちからともなく、パンクを崇拝するような気持ちを見失っていき、それが大学生を卒業してフリーター になって社会で働き始めた時期と一致する。『東京サバンナ』をリリースしたのはまさにそんな時で、僕らはその頃からヒップホップやレゲエやワールドミュージックを好んで聞くようになっていた。それは単純にパンクやロックに飽き始めて困ってしまい、他のジャンルの音楽を探求するべくタワレコの視聴機やなんかで無闇矢鱈にガンガンいろんな音楽を聞き漁った結果だった。また、ことヒップホップとなると、その頃よくオレの家に毎週のように出没していた大学からの友人Yがオレの部屋のステレオでしょっちゅうヒップホップをかけてくれていた(全然分からないモノもあったが)ので、それの洗脳もかなりあったと思う。余談だがオレがアコギを弾いてYがそのギターにラップを乗せるという即興の創作遊び(ドキドキするようなクリエイティビティーを感じた)もやったりしていた。そんなことを思い出すとほろ苦い照れくさい気がするが、彼はもうラップはやらない。オレはそんな人間じゃない、と言っていた。じゃああれからラップを始めたオレは一体どんな人間だ。
ヒップホップにしてもレゲエにしてもワールドミュージックにしても、まさか自分が好んで聞くようになろうとは、ロックに人生をかけてきたオトコ としては想像し得なかったことだった。もちろんそれらの音楽とロックとの間にだって共通する主義主張があるのかもしれないが、スピードや速さ、リズムの取り方などはやはり随分かけ離れているし、中学生以来ロック美学に洗脳され続けてきた自分は、ロックとは違うスピードや速さやリズムを持つ音楽を以降こんな風にそこまで好きになろうとは思えなかった。それに音楽性のみならず自分が例えばB-BOYのようにLLサイズのシャツを着てキャップ目深に被って大股で歩いてみたり、ラスタマンみたいにフ菓子然としたドレッドパーマをあててみたり、アーシーなヒッピーよろしく代々公でジェンベを叩いて地球愛を唄ったり、そんな風な自分は想像してもいまいちピンとこないし、単純に嫌だなと思っていたくらいなのだ。
しかしパンクやロックになんとなく感動を覚えぬようになっている自分が確かにいたのであり、どうも「音楽インポ」 みたいな状態に自分が陥っていくような不安があって、それでオレはとにかくその時期に本当にいろいろな音楽を聞き漁ったのだった。タワレコの視聴機コーナーを、新しい音楽を遮二無二求め、徘徊していた。しかし当初、完全なロック耳になっていたオレの耳は容易にロック以外の音楽を受け付けなかった。ショックであったが、「音楽インポ」は嫌だ嫌だの一心でオレは諦めず、とにかくありとあらゆる音楽を己が耳に、身体に、試していたのだ。
そんなオレの耳そして身体が、遂に新しいエキサイティングな音楽を感知した。それがアフリカ音楽だった。タワレコで初めて出会ったアフリカ音楽(その時聞いたのはモロッコ・マラケシュの最新音楽のコンピレーション と南アのマハラティーニというダミ声シンガーのファースト)には、その時までまるで聞いたことがなかったような、その上オレが求めていたような人間的エネルギーが満載に詰め込まれている気がして興奮した。その上リズムセクションやバンドアンサンブルなど、どれをとってみても、まったくどうしてこういう風になるのか、西洋音楽教育を義務教育課程 で受けてきて、さらに欧米のロックやポップスに感化されてきた自分にとってはまったく理解不能。しかしながらタワレコの視聴機を前に妙に踊っているオレのハート(あえてハートビート)は嘘偽りのない類の直情的なものだった。それまではディスクユニオンの1000円以下で買える中古ディスクばかり買っていた貧乏性のオレだったが、そこは迷わずにレジに駆け込んで新品を買ったね。
そのことがきっかけで、以降オレはアフリカ音楽に異常に傾倒するようになったのだが、アフリカ音楽のいろんなリズムを聴けたことは、結果レゲエやヒップホップなど他のジャンルの音楽を今まで以上に楽しいモノにさせることにもつながっていったし、結局のところ現在でも常にアフリカの音楽シーンには常に睨みをきかせている自分がこうしてここにいるのである。
話は戻ってしまうが、『東京サバンナ』リリース前後に起こったこのオレの中での音楽観の革命は大事件であった。というのもそれまでパンクナンバーばかりやっていた赤い疑惑はこれからどうしていけばいいのか? そういった大きな疑問を、それからのオレは常に抱え込まねばならなくなったからである。クラッチも同じようにパンクに飽き始めていたし、更に沓沢ブレーキーなどはもともとパンクに特別な思い入れのない冷めたオトナなオトコだった。ブレーキーは当時ボブマーリーに心酔していて、「レゲエっぽいのやろうよ」ボソッと言うのが口癖で、そんなこと簡単に言うなボケッ、誰が曲作ると思ってんじゃい、とイライラするのが当時のオレだった。
ブレーキーに催促されないまでもオレもレゲエやりたい。ラップもやりたい。ワールドミュージックに影響受けた日本の音楽をやりたい。やりたがりのオレの心は以来、常にいつもの面倒くさいクリエイティビティーで頭を一杯にさせていたけど、悲しいかな僕らにはまったく演奏の技術が欠落していた。それはパンクミュージックばっかりやってきた罰だとも思えた!
それに仮にパンクからはみ出した音楽をどうにか始められたとしても、誰が僕らの実験作に耳をかたむけてくれるだろう。今まで赤い疑惑を支えてくれていたのはパンク仲間達のおかげじゃなかったのか。そんなことで真剣に悩みながら、スタジオに入り、それまで通りギター、ベース、ドラムで曲を作ろうとする。するとすぐにパンクっぽく、ロックっぽくなってしまい、結局他の音楽スタイルを導入していくことの困難に直面していくだけだった。
それでもオレは努力を続けた。今までのパンクのファンにもアピールできて、さらに別の音楽ファンにもアピールできて、しかも自分達の拙い演奏能力でできることは何かを追求して曲を作っていった。そしてその結果出来上がったのが『東京フリーターブリーダー』だった。
このアルバムのリリースから僕らは知人の力を借りて商業的な流通システムに音源をのせることができた。そのおかげで冒頭に書いたように東京以外の地方からも反響が出始めたのだった。オレは少しでもパンクやロックの中に新しい要素を詰め込むべくラップにトライし、お囃子にトライし、太鼓と演歌(赤いヤビンギ)にトライした。総じてロックがベースになっていることは確かだが、それまで一緒にライブで対バンしていたようなパンク勢には驚きの内容だったに違いなかったし、実際いろんなシーン(要はパンクシーン以外)からの好意的な評価を沢山いただいて、僕らはまた改めて、ああ新しい道を歩み始めているのだな、という未知のフィールドへの船出を意識し高揚していた。
『東京フリーターブリーダー』のリリース以降、僕らはものすごい頻度でライブに誘われるようになり、何も考えずにほとんど片っ端から承諾し、月に4、5本のライブをこなすようになった。地方へのツアーもやったし、まさにバンド一色(アルバイト以外はね)の慌しい生活が続いた。アルバムも、派手さはなくとも着々と売上をあげていったし、冒頭にも書いたようにテレビ、新聞、ラジオなどのメディアにも出演し、「これはもしかしたらもしかするのかな」と心の内でぼんやりとしたハッピードリームを描いたりした。だけど現実は何も変わらなかった。それなのにライブのオファーはひっきりなしで、ただ何も考えずにライブをやっていくことしかできなかった。
その怒涛のライブ活動で培ったお囃子をアクセントにし、曲間でフリースタイルを取り入れたりするパフォーマンスにTOWNTONEの菊池氏が目を付けてくださり、ライブ盤のリリースが決まり、そのリリースとともにさらにまたライブのオファーが殺到した。僕らは本当にバカみたいライブばかりやっていたけど、状況はよくなるどころか、集客も減ってくるし、メンバーの士気も下がってくるし、流石に1年も2年も同じレパートリーでライブを続けていることに悪循環を見出して僕らは遂にライブ活動休止を決断した。
そのライブ活動休止の前後、オレは人生の大きな岐路に立たされていた。岐路に立たねばならない諸要素が折り重なってオレの肩にのしかかってきていた。それらのっぴきならぬ諸要素はオレに、自分の音楽に対する価値観、愛情、思い入れ等、それまでは切っても切れないと思っていたそれらの感覚を見失わせ、遂には(オレは本当に音楽がやりたいのか、音楽を続けていく意味があるのか、音楽で本当に楽しめているのか)という重苦しい自問自答へとオレを導いていったのだ。
幸いライブ活動の休止期間だったからこの精神的葛藤を、それまで応援してくれていた友人やファンの前でもらしてしまう心配はなかった。しかしもしかすると休止期間だったからこそ、そうした根源的な自分への詰問が生じたのかもしれない。
フリーターから脱し、就職を決意し、沖縄に行って瞑想修行をし、インドに「フリーター卒業旅行」へ。将来に迷い、未来が一向に定まらず、一喜一憂している間も、バンド練習だけは(頻度は減少傾向にあったが)続けていた。その度にバンドがオレに何をもたらしているのか、バンドでオレは何を感じているのか、必要以上に思慮を巡らせた。中学生の頃から憧れ続けた「バンドマン」。それは本当にオレの今の人生に必要なのか? 若者に特有の根拠のない自信を三十路目前まで疑うことなくしつこく抱き続けてきたオレにとって、この期間の自問自答は大きな責務だった。苦しかったが今になってみればその苦しんだ期間も尊い経験として思い出されるのだが。
悩みながらもスタジオに入りとにかく演奏を続けていた当時、俺のエレキギターは悩みながらもそれでも発動を止めなかった。しかし心は音楽とうまく融合していかない。クラッチとブレーキーと演奏するようになってもう随分経つが、クラッチもブレーキーも3人で音を鳴らし始めた当初よりプレイヤーシップなりパーソナリティーなり、着実な成長をみせており、その状況がまたオレを悩ませる。こんな面白いバンドを簡単に辞めてしまっていいのか?
オレは自分が声を出して歌を唄うということがどういうことなのか、実際スタジオで歌を唄いながらそれまでになかったほど相当客観的に分析し、何回かつまずき、しかし諦めずに気長に分析を続けていった。すると、歌を唄う、バンドをやるということに対して、自分にとっては刺激的な何かが、やはりいつも介在しているのだ、ということがようよう実感できるようになった。それは現実と虚構の狭間を自在に往き来するスリリングな(大人の)遊び、とでも形容できそうな感覚だった。それは要するに子供が「何々ごっこ」といってヒーローになったつもりで(本気で)遊んだりするけど、オレが人前に出てバンドをやるという行為には恐らく、その子供じみた欲求が潜在しているのではないか。プレイするときオレの身体にアクセルがやってくる。それはもう自分でもコントロールできない事態であって、オレはそのことが非常に尊いことのように感じた。それで何よりなんじゃないか、とまた自分が音楽をやることに対し、肯定的な価値観を見出すきっかけとなった。
そうして曲作りがようやくはかどるようになりライブ活動休止後約9ヶ月ぶりにライブ復帰をした時、「音楽をやる」ことがどれくらい自分の人生に華を添えているのかをやはり再確認できて非常に興奮した。クラッチもブレーキーも悩んで落ち込んでいるオレを知っていたはずだから、この復活劇はファンの方のみならずメンバーの間でも奇跡のような瞬間だった。
そのような軌跡を辿って、そのライブ復活から約半年後、僕らは遂に新しい音源のレコーディングにとりかかった。『東京フリーターブリーダー』リリースから約3年。僕らがその間ため込んだ音楽的なネタは更に更に幅を広げられたと信じている。ワールドミュージック、ヒップホップ、レゲエ、そういった音楽要素をようやく自分達なりに少しずつ解釈できはじめた感覚がある。詩のオリジナリティーにも磨きがかかっている。なんて自分を褒めても仕方がないところだが、なんと今回はさらに実の父親がゲストミュージシャンとして参加しており、それもかなりの彩りを加えているはずである。実際録った音を聞いてみても自分が興奮できる内容になっている(この相変わらずの自惚れ野郎!)。メンバーも同様、内容の濃さに満足している。
ただひとつ心配なのはここにできあがった「赤いビート」がどこまで現在の音楽シーンに受け入れられるのか、という一点につきる。日本ではまだほとんどワールドミュージックの浸透が進んでいない。レゲエもヒップホップも商業的な定型サイズのモノしか街からは聞こえてこない。そして僕らの音楽の核となっている赤い疑惑のロックサウンドにしてもレコードショップのどこで扱われるべきなのか、どこで扱ってほしいのか、自分達でさえ分からない。検討のつかないことが多すぎる。しかし何よりも予想のつかない感じが、今のオレには非常にエキサイティングである。売れなきゃ借金が残るのみであり、リリースまでの時空間が濃密になってきていることが実感できる。
新作を期待していただいている皆様。期待は絶対に裏切らぬ。アクセル長尾が男に誓う。ページ先頭へ ↑